早春の法然院で星野道夫さんを想う

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僕の手元に星野道夫さんの講演録「魔法の言葉」があります。その中に、1995年1月京都東山山麓の法然院で開催された写真展に併せて行われた講演録が掲載されています。東山山麓にひっそりと佇む法然院を訪れるたびに、何故か今は亡き星野さんにそっと近づいたように思ってしまいます。それは、この3月半ば過ぎに訪れた時にも感じたものでした。

その日の講演で、彼は次のようなことを話しています。
それは、彼がアラスカに向かったきっかけとなったことで、彼が東京で電車に乗っている時に、北海道のことを考えてみると今でも北海道ではクマがいて山を登っている、そのことが不思議でならなかったと。そのことからすべてのものに同じ時間が流れているということが不思議に思えることに繋がっていきます。そして、私たちは二つの時間を持っているのではないかという思いに至ったと話を進めていきます。一つは、毎日いろいろなものに追われている時間、もう一つは、それが自然ということだったと思ったのでした、と。

そして、身近な自然と遠い自然という人間にとって二つの大事な自然があると説いていきます。言葉として、なんとなくイメージは湧くのですが、彼は遠い自然を次のように表現しています。
「北極圏で油田開発が進んで、オオカミやカリブーの大群が消えてしまっても実際の暮らしは基本的に何も変わらないかもしれない。でもその中で確実に何か失っているものがあるということであり、それは想像することだと思います。本当にオオカミがいなくなったら、オオカミを想像することができなくなるけれども、そこにオオカミがいれば、実際にそれを見ることはできなくても、自分の意識や想像力の上で豊かさのようなものをもたらしてくれます。そういう意味で遠い自然は近い自然と同じくらいに人間にとって大切だと思います。」

ごく当たり前のようにも思えることなのですが、とても深い言葉です。その言葉の受け止め方は、人それぞれの感性によって異なるでしょう。誰にも平等に流れている時間。それは止めることもできなければ、自分で進めることもできません。

二つの自然の中での「想像」の言葉の持つ意味について、改めて考えてしまいました。今やスマートフォンやタブレットで、いつでもどこでも物事を調べることができるようになってしまいました。しかし、そうして調べたものは単なる通り過ぎていくだけの情報でしかありえません。そこには、人の感性を磨くことや人が知識として蓄えていくものであることが欠落しているように思えてなりません。そういう意味で、改めて彼の言葉は深く心に突き刺さります。

以前、NHK特集でも取り上げられた法然院の自然の森。その森に溶け込んだような茅葺の山門。山門をくぐり抜けると目に飛び込んでくる水を表わす白砂壇。何度訪れても、心が洗われる思いになってしまいます。