時の記念日に「時間」を考える

奈良県明日香村の水落遺跡は、斉明6年(660年)、中大兄皇子(後の天智天皇)により造られた、わが国初の水時計である漏刻台の跡です。漏刻台とは、導排水管をめぐらし、一定の速度で水を流すことで時を計る時計を意味し、鐘をつき、時を知らせたそうです。このことを日本書紀は、「斉明6年5月、皇太子初造漏刻、使民知時」と記しています。今日6月10日は、時の記念日。時あたかも、標準時を早めようとの考えが話題に上っている折、あらためて時間を考えてみました。

今日は新聞休刊日なので、朝日新聞「天声人語」は昨日、「『時間が足りない』と焦るくせに、『時間をもてあましちゃって』などと言う。思えば、しっくり過不足なく時間が流れることは、人にはまれなのかもしれない。」との書き出しで、時間について語っていました。また、「考えてみれば、私たちは時計なしの時間を知らない。時を見た人はいないのに、時計に時を見せられて、いつも小走りに急ぎがちだ。」と述べて、僕たちはまるで強迫観念に囚われているかのように、常に時間に追われている現実を表現しています。

思えば、仕事の面で特に感じるのですが、目覚ましい技術革新で一つのことをやり遂げるのに時間は大幅に短縮されています。しかし、それによって作り出された時間があるはずなのに、今までは求められていなかったことまで要求されて、しなければならないことは増えて、するべきことは一向に減る気配はありません。

悠久の時・・などと、おおらかな時間を感じることは、旅に出たとき以外にはないでしょう。人が時を支配しているはずなのに、時に人が支配されているような本末転倒の現象が当たり前の現実に、虚しさすら感じてしまいます。

また、日本の「標準時」を2時間早めて、東京の金融市場が世界一早く始まるようにすると、猪瀬東京都知事が言い出したのもつい最近のことです。これに対しても、「天声人語」は5日の紙面で、二人の大学教授の言葉を引用して、やんわりと批判していました。バスを24時間走らせ、「時間という市場」を開発するという発想には違和感を感じざるを得ません。それは、オリンピック招致に絡んでの都知事の品位に欠ける失言に通じるものを感じてしまいます。あの失言以来、僕は招致活動のピンバッジを外したのですが、時間を市場と捉える発想そのものが、人間の驕りではないでしょうか。

僕が愛してやまない写真家であり、エッセイストでもある星野道夫さん。「すべてのものに平等に、同じときが流れている」との彼の言葉と、時間をも市場と考えてしまう都知事のデリカシーのかけらもない言葉との大きな落差を感じています。