その時、僕はムースになる・・・星野道夫さんの言葉

極北の地アラスカの自然とそこに生きる動物や人びとの写真と、透徹した感性で心に響く数々のメッセージを残した星野道夫さん。彼がカムチャッカの地で逝ってから来月で15年を迎えます。その著作の中で僕が最も好きな「アラスカ風のような物語」の中に、ポトラッチという原住民であるインディアンの御霊送りの祝宴を描いたエッセイがあります。

死者の魂はその日を境に旅立っていくというポトラッチ。その日は1年前に世を去った村の老婆の御霊送りの日でした。村の人々は、たくさんのごちそうを食べ、踊り、死者について語り、そして死者への悲しみは不思議な明るさへと昇華されていくと彼は述べています。そのごちそうは、ブラックベア、ビーバー、サーモン、ブルーベリーやクランベリーの木の実、そしてポトラッチのための聖なる食べ物とされるムース(ツノジカ)。

ムースは肉だけではなく、その頭を煮てスープとしてもこの祝宴に欠かせないものとされているそうです。そして、そのスープをすすった時のことを、彼は次のような言葉で表現しています。

「生きる者と死す者、有機物と無機物。その境とは一体どこにあるのだろう。目の前のスープをすすれば、極北の森に生きたムースの体は、ゆっくりと僕の体にしみこんでゆく。その時、僕はムースになる。そして、ムースは人になる。」

食物連鎖という単純な言葉では言い表せない、彼の自己が食するために死んでいかなけらばならなかった他の生き物への感謝の言葉だと思います。当たり前のように三度三度食事を摂る日常を送っていると、人間が生きていられるのは、多くの他の生き物の犠牲の上に成り立っているのだということを忘れがちです。

例えば、豚はおよそ生後8ヶ月で出荷され屠場に送られると、養豚家からお話しを伺ったことがあります。豚は人に食されるために生まれてくるようなものだと感じたことがありました。星野さんの表現を借りれば、そうして人と食される生き物が一つになるはずです。

そういう意味で、先日読んだ「原発と津波」の中で佐野眞一さんが見たという原発避難区域内の豚舎で、人に食されることなく死んで行かなければならなかった豚たちが哀れでなりません。その豚舎の描写を読みながら、星野道夫さんの「僕はムースになる。そして、ムースは人になる。」の言葉を思い浮かべたのでした。